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2008年10月

2008年10月26日 (日)

週刊金曜日 日の丸の旗の下に・・・大集会

これまで読者の批判に答えることのない週刊金曜日だが、前回の記事で取りあげた金光翔氏のブログで批判された日の丸を掲げる自由の女神ポスターに今週の編集長後記で答えている。

 本紙十五周年記念集会のポスターに「日章旗を使うのはおかしい」と疑問の声がある。国家権力は天皇制を背景に主権を市民から奪った。戦後は米国が天皇を利用しつつ支配者となった。新自由主義が崩壊しつつある今、市民が主権を奪回するときだ。皮肉を込め「日の丸」を奪った。奴隷状態脱却の意である。(北村肇)

むちゃくちゃな言い訳だ。モチーフに使ったドラクロアの「民衆を導く自由の女神」に描かれているフランス7月革命に無理矢理こじつけているが、そりゃ無茶だ。デタラメであることは説明するまでもないだろう。
 旗こそがこの絵のテーマを表しているのに、革命旗である三色旗が日の丸に代われば、意味はまったく逆になる。日の丸が何を象徴しているのか、週刊金曜日編集長が知らぬはずはない。日の丸がまるで主権を象徴しているように北村氏は言っているが、それは悪質なごまかしだ。これまで週刊金曜日が記事にしてきた「日の丸・君が代問題」は何だったのだ。日の丸は天皇制軍事覇権国家を象徴し、国粋主義の最重要アイテムだったはず。革命旗で打ち破られる側の旗だ。

まして、日の丸に導かれる民衆に「在日外国人」の存在はない。

日の丸が導くのは排外主義であり覇権国家への野心でいっぱいの醜いナショナリズムだけだ。

こんな反動的なポスターが平然と作られ、批判にも強弁でそらそうとする週刊金曜日の考えは、<佐藤優現象>に冒された病状の一つの表れといえよう。リベラル・左派が国益を中心とした論理と”新自由主義”という共通の敵を与えられて、保守・右派と共闘態勢に再編されようとしている。この「国民戦線(*)」路線は当然排外ナショナリズムを伴う。

週刊金曜日のバックナンバーをパラパラみると、2008.4.11(698号)の佐藤優の「飛耳長目」に


ー 沖縄「集団自決」裁判の判決に安堵してはならない ー

 むしろ重要なことは、この機会に山崎氏や『月刊日本』編集部をはじめとする偏見なき眼で沖縄を見て、日本の国家統一をまじめに考える右翼・保守派の人々と左派・市民派並びに沖縄の有権者が対話を強化することと思う。

という文章がある。いつもの佐藤の主張なのだが、裁判の判決について言及しながら沖縄集団自決事件の本質を歪曲し、狂信的ナショナリズムの犠牲者を再びナショナリズムに吸収しようと主張している。こんな悪質な詐欺的言動を吐く人物をなぜ批判しないのだ。それ以前に「日本の国家統一のために」などという国家主義者の常套句に平気で共感するリベラル・左派の存在ってなんなんだ。

強弁で言い訳するのなら週刊金曜日は、リベラル・左派のフリをせず、素直に『SAPIO』辺りに吸収された方がいい。


(*)  金光翔 「<佐藤優現象>批判」 7. 「国民戦線」としての「人民戦線」



2008年10月13日 (月)

週刊金曜日 日の丸掲げて決起集会かよ

今週の週刊金曜日を読んで、相変わらず佐藤優の文章の、見当外れを誤魔化す為の無茶な引用と大量の言い訳に大笑いさせてもらった。いつものように話の流れが大きくぶれるので何が言いたいのかまったくわからない。見開き4ページも使っているのは、よっぽどみっともないヘマを取り繕うと努力したからだろう。(笑) 結局、テーマについて持論があるわけでなく、佐藤優が知ったかぶりすることが求められている役割で、内容なんてどうでも良いのだろう。池田大作の論文とまったく同じだ。

「おっ」と思ったのが、山口泉氏のきんようぶんかテレビというページの記事。
前に自分が書いたエントリー「週刊朝日」実は極右誌 (いまいちなタイトルだな)で宮崎あおいの歴史認識に対する週刊朝日の嫌がらせ記事を批判したのだが、山口氏もまったく同じ意見を書いていた。

だが、そのことよりなにより注目したのが、

 私は一瞬、別の週刊誌ではないかと疑ったほどですが、今や新聞・雑誌ごとの旗幟の違いなどなきに等しく、ついこの間まで”進歩派””革新”の看板を掲げていたはずのオピニオン・ジャーナリズムが雪崩を打って新保守主義の別働隊と化している以上、こんなことはいちいち驚くにあたらないのでしょう。

これは、名指しこそしていないが、「週刊金曜日」に対する痛烈な皮肉ととれるものだろう。

と書こうとしていたら、金光翔氏のブログにすでに書かれていた。

仰天しました――『金曜日』と「日の丸」

 この号はつっこみどころ満載で、ブログでは『週刊金曜日』創刊15周年”大集会”のポスターにドラクロアの「民衆を導く自由の女神」がモチーフに使われているのだが、驚くことに自由、平等、博愛を現す三色旗がアジアにおける暴虐支配の象徴 虐殺、強姦、奴隷支配を表す日の丸に変わっていることを批判している。持っているのが日の丸なら絵に描かれている踏みつけられる屍はアジアの民衆なのでしょう。

『金曜日』の「国益」中心主義への変質は、完了していたわけである。これならば、佐藤優が登場してもおかしくもなんともないだろう。『金曜日』の変質をこれほどわかりやすく示してくれたという意味では、わざわざ変質を指摘する労を省いてくれてありがたいとは言える。

なるほど、国家主義にはしる疑似リベラルを見事に象徴するポスターだ。このわかりやすさは、批判に対して当てつけているようだ。

このポスターは、『金曜日』が創刊15周年という「大集会」で新しいスタートを切るにあたって、まさにうってつけのものだ。「日の丸」を積極的に掲げる大 国主義的な「護憲派」。もう、『金曜日』に影響を受ける「左派」や「市民」など、心配する方が間違っているのかもしれない。そうした読者がいれば、最早そ れは共犯関係であり、「騙されたがっている」ということだろう。

日本、日本人のリベラルといものの限界なんでしょう。ナショナリズムの枠内であれば、存在することに不自由がない。箱庭リベラル。

はぁ、自分もまたもや脱力してしまった。しかも会場が九段会館。

きっと盛大な茶番劇が見られることでしょう。

2008年10月 1日 (水)

日本ー繁栄時代の終わり

先月、休刊ということで『論座』、『月刊現代』を読んだ。
佐藤優の駄文や知性のかけらもない評論家どもの乳繰りあいに呆れ、こんな馬鹿どもが日本の知性だとは、もはや救いようもないと激しく脱力した。

その後、福田が突然退陣した後、麻生が総理大臣となり中山新国土交通相が本音を語って辞任。

何なんだろう。この国はおかしい。
この国では、思想というものが他所から取り入れるものとしてあるわけなのだが、思想は内面化させることなく、着飾るのか見せびらかすものであるかのようだ。日本には評論家しかいない。
だから、相手ごとに言葉を、考えを変えることをよしとする。中山はただの人間のくずだが、批判されたのは彼の主張そのものではなく、主張を使い分けなかったことだ。

明治以来、欧米の一部、使える非文明人として重宝されてきて、日本もその恩恵を十分に受けてきた。しかし、その時代も終わろうとしているようだ。
もはや導いてくれるものはいない。安倍や麻生のような能なしが日本のリーダーとして力を持つということからして、自らの足で自滅の道へ歩み始めたように見える。

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