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2008年11月

2008年11月16日 (日)

読み方注意!『福沢諭吉伝説』 - 恥を知れ!佐高信 -

 週刊金曜日発行人である佐高信によるアジア民族蔑視の差別主義者・領土拡張帝国主義者・天皇賛美者である福沢諭吉の美化本である。
この本は同じ慶応大学同窓の”産経新聞”社長に勧められて書いたものだと後書きで書いている。評価が揺らぐ福沢諭吉について右派メディアのリーダーの依頼は、それなりの期待があって当然だろう。佐高のデタラメさを見抜いてのことだ。

それにしてもこれほどトチ狂った本があるだろうか。戦争責任を追及し民族差別に反対し、反植民地主義を謳う雑誌の発行人が、市民活動家でもある研究者から、天皇忠義を説き、アジアの民族を蔑視したうえに侵略主義を煽った張本人と批判されている歴史上の人物を、トンデモ説に従って美化、礼賛をするとは。

 戦後の福沢諭吉の評価は、「近代日本最大の啓蒙思想家であり、近代日本の民主主義の先駆者」である。ところが、安川寿之輔の研究によれば、この”典型的な市民的自由主義者”像は、丸山眞男の思いこみによる『福沢諭吉全集』の恣意的な引用で創り出された虚構の「丸山諭吉」像なのである。、実際の福沢諭吉は、帝国主義者であり、領土拡張主義から隣国の民族を蔑視し、偏見を植え付け、天皇に対する忠義を説いていたことが厳格な検証により明らかにされている。(『福沢諭吉のアジア認識』、『福沢諭吉と丸山眞男』)

 安川に崩された”丸山諭吉像”=”典型的市民的自由主義者”を回復・さらに美化しようとしたのが平山洋の『福沢諭吉の真実』である。平山の論は市民的自由主義者で"あるはず"の福沢諭吉に相応しくない民族蔑視、領土拡張主義、天皇賛美などの発言は、全て石河幹明記者によるものだと区別するのである。しかし、時事新報の論説の多くに福沢諭吉の関与がないばかりか、弟子である石河によって福沢と全く逆の主張が福沢の目を盗んで展開されると言うことがありえるのだろうか。平山の石河陰謀説に対し安川は『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』で平山らの”福沢諭吉美化論”のデタラメを批判している。平山の検証は、予断による推論の積み重ねであり、説得力のある合理的論拠というものをほとんど提示していない。筆者鑑定を根拠としているのだが、これも福沢の関与がないことを証明できぬまま、都合の悪い論説を全て石河幹明の偽装やねつ造によるものと決めつけている。 結局、平山は福沢諭吉が”市民的自由主義者”であるという予断の基で区別しているに過ぎない。

 佐高の『福沢諭吉伝説』では「脱亜論」の真実に迫るとして、最終章では福沢諭吉が金玉均を全面支援したことで、”脱亜論”の正当化をしている。福沢諭吉は朝鮮を天皇を戴く日本の支配下に置くために、反体制派の金玉均を支援して傀儡にしようと利用しただけであることは、バカでもわかる。そんなこともわからないのは、何も考えもなく平山の主張を鵜呑みにしているからだ。


福沢は一貫して金玉均ら朝鮮の「開化派」の支持を続けたように理解されているが、朝鮮王宮の武力占領によって閔妃政権に代わる大院君を執政とする親日政権が樹立されたときは、彼が指導・支持した「開化派」に敵対するこの「守旧派」の首領の側に福沢は立った。つまり福沢は、親日政権の樹立と朝鮮支配のためなら、悪魔とも手をつなぐ政治家に変貌しており、そういう自信の転身にあわせて、「開化派」に対しても、いつのまにか「かの開化党と称する新進の官吏輩の如き、・・・素より一個の見識あるに非ざれば、決して朋友として頼む可きものに非ず。」(「井上伯の渡韓・・・」『全集』14 601)という見事な評価替えをすませていた。」(『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』P.278)

佐高の『福沢諭吉伝説』はそんな平山の主張を無批判に全面的に依拠し、事実は大ボラふきの変節漢である福沢諭吉を”平熱の思想家”などと讃えている。
戦争責任を追及し、日本の歴史認識を正す側にいるはずの佐高が、身びいきな歴史修正主義にまわり、アジア民衆の敵を無邪気に(?)擁護する側にまわったことの裏切りに怒りを感じる。

安川は『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』の中で、


 他の記者が起草して福沢の関与の少ない論説を『福沢諭吉全集』に収載していいのかという疑問自体は、意表を突く問題提起であり、井田進也の場合は、その論文が『思想』という日本の代表的な学術雑誌に掲載されたという事情もあり、多くの波紋と肯定的な評価をもたらした。

後述するように、新たな福沢諭吉美化論、偶像化論にすぎない二人の研究にマスコミが飛びついたのは、日本のマスコミが今なお「丸山諭吉」神話の支配下にあって、その福沢諭吉理解の水準が、次の(3)で後述するように、保守的な政治家の佐藤栄作元首相以下のお粗末な水準にあるからである。さらに問題を広げるなら、現代日本の国際問題になっている小泉首相の靖国神社参拝強行に象徴されるような、戦後日本の社会がアジア太平洋戦争の戦争責任を未決済のまま、いまなお直視できていないという歴史意識の問題に帰着するのである。

 平山の『福沢諭吉の真実』がマスコミに受け入れられるのは、福沢諭吉の実像が野蛮なアジア侵略者としての日本の姿とダイレクトに結びつくからで、それを認めたくないからだろう。帝国ナショナリズムが染みついたマスコミには、この幼稚なトンデモ論の方が都合がいいのだ。


 なお、(16)のインタビュー中の発言で、平山は「安川さんは過激派ですけれど、それに似たような考え方をする人たちはずいぶんいて、大阪大学の子安宣邦さん(『「アジア」はどう語られてきたか』藤原書店の著者)なんかにも流れ込んでいます。」と、公安調査庁の身元調査のようなことを語っている。つまり平山が、こういうことを発言することに意味があると考える類の「研究者」であることは、付記しておきたい

福沢諭吉神話を守るため、とても学術的とは言えない乱暴な論を立て、新書(文春新書)でばらまくなりふり構わないやり方をする彼の目的がなにかがよくわかる。佐藤優や平山洋が右派メディアでもてはやされ、左派・リベラルがそれに追従する絶望的状況だ。

『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』のあとがきで

「作家」が、最大限に想像力をめぐらして、「近代日本の黎明に燦然と輝く巨星!」の「渾身の大河小説」と称する岳真也『福沢諭吉』青春篇、白秋篇(作品社)を創作するのは自由である(平山洋『福沢の真実』はその想像力の飛翔に大いに貢献)。しかし、「歴史離れをするにはあまりに謙虚」であるべき思想史研究者が、厳密な「史料的考証」を怠り、「丸山諭吉」研究の恣意や作為の拡大再生産を行い、また政治家の佐藤栄作元首相以下の福沢諭吉理解の水準にあるマスコミが、その誤謬の「成果」称賛の大合唱をするのは、もういい加減にしてほしい!という強い思いがあって、またまた福沢諭吉研究のまわり道をしてしまった。

佐高の『福沢諭吉伝説』は、この小説と平山洋の『福沢諭吉の真実』をベースに書いたものだろう。神話作りに荷担した罪は重い。

私は、これまでネット掲示板に参加してきて、ネットウヨ、嫌韓流の源流は”福沢諭吉”だと思っている。福沢諭吉の虚像を打ち壊さなければ、日本人に染みついたアジア民族蔑視意識はなくならないと考えている。そういう意味で佐高の福沢諭吉美化は今後彼をネットウヨ同類の敵とみなすことにした。

日本の論壇、マスコミに<佐藤優現象>が席巻し、『福沢諭吉の真実』が賞賛をもって受け止められている。逆に金光翔『<佐藤優現象>批判』と安川寿之輔『福沢諭吉のアジア認識』の成果にそっぽを向けていることに日本の論壇と言論メディアの無能さが示されている。

ちなみに『週刊金曜日』(330号 2000年9月)に安川寿之輔「福沢諭吉を透かしてみれば」という論稿を掲載している。福沢諭吉がアジアの市民からどう見られているのか知らぬはずはない。佐高はそれでも福沢諭吉を”平熱の思想家”と与太をかますつもりなのか。

たしかに佐高も福沢諭吉も言った言葉にこれっぽっちも責任を持たない鉄面皮で知られている。これが”平熱”ということなのか。


追記:

実際のところ、世間的には福沢諭吉=丸山諭吉像である自由主義者、啓蒙思想家という神話が定説として受け入れられている。その上、安川らの”丸山諭吉”神話批判が一般に知られる以前に、その批判をかわす平山の『福沢諭吉の真実』が安価で手に入れやすい一般新書として広く出回っている。たぶん、ほとんどの人は安川寿之輔の福沢諭吉研究そのものを知らないか、『福沢諭吉の真実』でしか知らないのではないのか。日本の歴史認識問題の構図そのものだ。日本の歴史研究の欠陥と言えるのじゃないのか。

興味があれば、安川寿之輔『福沢諭吉のアジア認識』を読んでほしい。

福沢諭吉のアジア認識―日本近代史像をとらえ返す 福沢諭吉のアジア認識―日本近代史像をとらえ返す

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福沢諭吉と丸山眞男―「丸山諭吉」神話を解体する 福沢諭吉と丸山眞男―「丸山諭吉」神話を解体する

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福沢諭吉の戦争論と天皇制論―新たな福沢美化論を批判する 福沢諭吉の戦争論と天皇制論―新たな福沢美化論を批判する

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2008年11月 3日 (月)

週刊金曜日 疑似護憲論者佐藤優と土井たか子対談

ほとんどの対談なんて相手の権威をもって自らのハクをつけようという姑息な魂胆以外に何もない。佐藤優はそんな対談を積極的に利用してハクをつけてきた。だから佐藤優は、対談は好きだが討論からは徹底的に逃げている。

『週刊金曜日』2008.10.31 での土井たか子と佐藤優の対談「対談 社会の側から平等・公平を実現する」は、佐藤優の為に週刊金曜日がお膳立てしたそんな見え透いた対談なのだ。


佐藤 憲法改正論者のなかで、危険だと思う議論があります。憲法改正論者のように交戦権を認めるとなると、天皇の国事行為とパッケージになるということです。  交戦権を認めるとなると、誰が宣戦布告をして、降伏をするにせよ、和平をするにせよ、戦後処理は誰がするのかと、そのときにどうしても天皇がでてくることになる。ここで、前の戦争のように負けた場合には天皇の戦争に対する責任が出てくると思うんです。

土井
 いや、「天皇は(中略)国政に関する権能を有しない」(第四条)と憲法で決まっています。天皇は憲法に定められた国事行為以外に権能を有しない。具体的に決まっている国事行為以外はできないんですから、政治権能はいっさいない。

佐藤
 私が申し上げているのは、現行憲法の解釈ではなくて、改憲をした後の議論です。

土井
 改憲論者の議論というのはとどまるところがありませんからね。

佐藤
 とどまるところがなくて、いちばん危ないのは天皇そのものが崩れる危険があるということなんです。

土井
 それは憲法を悪く変えてということですよね。いまの憲法は九十六条で改正をする手続きを決めていると言うことであって、改悪の手続きを決めているわけではない。これは田畑先生ばりなんですよ。どこは軽く考えてはだめですよと、しつこいくらいに強調された問題です。

これまでもずっと佐藤が主張しているトンデモ護憲論。護憲にもいろいろある。
日本が戦争をして負けた時、天皇に戦争責任がおよび、天皇制が崩れる事態を恐れて、護憲を主張する佐藤優のトンデモぶりは、ドクター中松並。戦争をすることを恐れるのではなく、戦争して負けたときの国体護持を心配しているのだから決して平和を求めて護憲を主張しているわけではないのだ。護憲の象徴的存在の土井たか子氏から佐藤優の国体護持の為の護憲論にお墨付きをもらおうとするが、まったくかみ合わない。いやらしいのが佐藤は土井たか子が象徴天皇制を許容していることを知っていて、持論に有利な言質をとれるとふんでいたところだ。対談が編集されているとはいえ、あまりにスムーズな誘導に週刊金曜日と共謀して土井氏を利用し佐藤を平和・護憲派に仕立て上げようとしたと読める。
そうでないとしても、トンデモ佐藤のために土井たか子氏との対談をセッティングしたのだから、週刊金曜日の佐藤へのはまり方は相当なものだ。中毒を通り越して、佐藤優ジャンキーとしかみえない。

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