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2009年10月11日 (日)

「司馬史観」 - <佐藤優現象>の向こうに見える "坂の上の雲"

 今秋からNHKのスペシャルドラマとして「坂の上の雲」が放映されると番宣で知ったのはだいぶ前だったが、小説はほとんど読まないし、ましてやヒーロー伝説の類の時代小説なんて、死ぬほど退屈でも読まない。ドラマも見ないし。まったく興味がなく気にもかけなかった。それが今とても気になる。

 以前、このブログで「週刊金曜日」の発行人佐高信の著書『福沢諭吉伝説』を批判する記事を書いた。安川寿之輔氏の福沢諭吉批判の記事が以前の週刊金曜日にも掲載されたにも関わらず、保守派論者のお粗末な福沢諭吉擁護論を下敷きに(完コピ(^_^;))にしたいい加減な「国家主義者福沢諭吉」賛美本を出したのかが不思議だった。しかもその前には同じような目的の『西郷隆盛伝説』なんて本も出している。
 さらに、同じく週刊金曜日の編集長北村の極右系TV番組での天皇制擁護発言。「天皇制が中心となり国家が成立する」、「天皇制は日本古来の伝統と文化」、「天皇を戴いた日本は四民平等」等々の皇国史観そのままを本音でカミングアウトしている。

 そこでこれは明治賛美の布石なのではないかと考えた。「明治賛美論」と言えば日本の近代史のスタンダードと言われる「司馬史観」だ。

 調べてみると佐高は以前に、『歴史と真実』(筑摩書房 1997)、『司馬遼太郎と藤沢周平』(光文社 1999)で司馬遼太郎批判をしている。さっと読んでみると、佐高の司馬遼太郎批判は、市井の人を書かず、英雄ばかりを主人公として書いていることを批判しているので、佐高らしい本質を外した間抜けな批判だが、これは「司馬史観」の歴史認識問題にはまったく触れていない。
「司馬史観」の本質的な問題は歴史事実を恣意的に選択し、日本帝国主義が行き着いた先であるアジア太平洋戦争での敗戦ー戦後処理という結果の原因を全て「昭和」という時代あるいは「参謀本部」に負わせることで「栄光の明治」という虚飾の国家像を作り上げたことではないのか。

あくまで小説なのだからそれもありなのだが、「司馬史観」は先に国家が作られた後で国民が規定された日本人にとってアイデンティティーの危機から逃れる方便として、まるでドキュメンタリーのように定着してきた。その結果として否定されるべき「皇国史観」そのままが現代にまで歴史認識のスタンダードとして受け継がれることになった。

 相変わらずの佐高のトンチンカンな批評には脱力したが、驚くことに、上記の2冊で佐高と共に「司馬史観」を批判している中村政則氏も「司馬史観」の本質的な欠陥について触れていないのだ。中村政則氏には『近現代史をどう見るかー司馬史観を問う』(岩波ブックレットNo.427)というそのものずばりのタイトルの著書があるのだが、そこで書かれているのは「司馬史観」を原典としたと言う藤岡信勝らの「自由主義史観」と「司馬史観」との違いを上げて、歴史修正主義批判の巻き添えから「司馬史観」を擁護している。基本的な歴史認識は「司馬史観」に同意しているのだ。

 中村氏は司馬が重視する日露戦争より日清戦争の方が歴史的意義が大きいと言うが、その理由は「もし日本が日清戦争に負けていれば、確かにフィリピンの二の舞になる可能性は絶無とは言えなかったのである。その意味で、日清戦争の勝利は日本の属国化の危機を回避させた最後の機会であった。」としている。さらに、司馬遼太郎からの引用「明治末年から日本は変質した。戦勝によってロシアの満州における権益を相続したのである。がらにもなく”植民地”をもつことによって、それに見合う規模の陸海軍を持たざるを得なくなった。”領土”と分不相応の大柄な軍隊を持ったために、政治までが変質していった。〜〜」(『ロシアについて』)と「日露戦争はロシアの側では弁解の余地もない侵略戦争であったが、日本の開戦前後の国民感情からすれば濃厚に明らかに祖国防衛戦争であった。〜〜。」(『世界の中の日本』)をあげ、中村氏は「私もロシアのバルチック艦隊が日本まで攻めてきたことを考えれば、日露戦争が「祖国防衛戦争」としての側面を持っていたと思う。もし、日本海海戦で東郷平八郎の連合艦隊が負けていれば司馬の言うとおり、日本はロシアの属邦になっていただろう。」と「司馬史観」に同意している。しかし、付け加えるように、「だが、この側面だけ見ただけでは日露戦争の全体像は見えてこない。 何より日露戦争は朝鮮・満州を舞台に戦われたのであって、日本本土で戦われたわけではない。-中略- 戦争を考える場合には、こういう「攻められた側、侵略された側」の視点を忘れると、とかく独善的な戦争観が成立することになる。」「司馬の『坂の上の雲』や日露戦争についての文章を読んで不満なのは、この戦争と朝鮮問題との不可分の関係を深刻に考えていないことにある。」と司馬に対して不満を述べているが、ここまで指摘していながら、彼もまたこれ以上つっこむのを止めている。これは多くの欠陥が指摘されながら、基本的に「司馬史観」に同意しているからだろう。

 もう一つ、面白いことに気がついた。
 中村氏や佐高なども含めて、司馬史観批判の中心的な論点は、「明るい明治」と「暗い昭和」という歴史を単純な「二項対立」で語ることなのだが、司馬は「国家像や人間像を悪玉か善玉かという、その両極端でしかとらえられないというのは、いまの歴史科学のぬきさしならぬ不自由さであり、その点のみからいえば、歴史科学は近代精神をより少なくしかもっていないか、もとうにも持ちえない重要な欠陥があるようにもおもえる。」と言い放っているのだが、司馬こそが国家像や人間像を「善玉」と「悪玉」に分けて歴史を語っている張本人ではないかという当然の突っ込みがある。「それにしても、司馬が「人間像」を悪玉・善玉にわけていることに「多少の引っかかり」を感じた島田が、司馬氏が「国家像」を悪玉・善玉にわけていることに何の「ひっかりも」感じていないのは不思議なことです。〜〜 なぜなら、『坂の上の雲』を愛読し、司馬遼太郎の「史観」を支持している読者の多くは、善玉の日本が悪玉のロシアを打ち負かしたという「物語」を愛している人々だからです。」『攘夷と皇国』(備仲臣道、礫川全次 批評社、255p)
言いたいのは、突っ込みではなくて、<佐藤優現象>を推し進めた理由は、たしか”硬直した左右の二項対立の図式」の打破”ではなかったか。そう思うと、ますます「司馬史観」と<佐藤優現象>とは、相似形に見えてくる。

 朝日新聞や多くのリベラルメディアが司馬遼太郎の歴史観を絶賛しているのは知られているが、姜尚中氏が著書『愛国の作法』の中で司馬史観を肯定的に引用しているのには驚いた。
 「司馬とほぼ同じように丸山眞男も、黎明期の近代日本という国家に宿っていた「健全さ」がどのように食い荒らされ、目を覆うばかりの「体制のデカダンス」に転げ落ちていったのか、その痛ましい歴史に光を当てました。」

 ただし、ここでの引用は「とはいえ、司馬と丸山が、ともに明治前期の日本という国家に見いだした「政治的リアリズム」の認識だけは、しっかりと確認しておくべです。〜〜」というように「ナショナリズム」と「政治的リアリズム」との関係において触れているだけなので、ここで明治の覇権主義をあげつらうのはお門違いだとしても、明治を「健全」などと言い、伏線として「もっとも、太陽に向かって飛ぶイカロスのような明治国家の輝きによってあたかも目が眩んだ近代朝鮮の荊棘の歩み(ブルース・カミングス)を思うと、複雑な気持ちになります。」と弁解しているが、まっとうな在日だったら「複雑な気持ち」で済むものなのか?

 金光翔氏が論文「<佐藤優現象>批判」の中で、佐藤が提唱する「人民戦線」=(国民戦線)について書いているが、この「国益」を中心として再編された「国民戦線」が向かおうとしているのは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』をバイブルとした、偉大なる日本人の偉大なる大国の復活ではないのだろうか。

参考:

『司馬遼太郎の歴史観 その「朝鮮観」と「明治栄光論」を問う』 中塚明 (2009 高文研)

司馬遼太郎の歴史観―その「朝鮮観」と「明治栄光論」を問う Book 司馬遼太郎の歴史観―その「朝鮮観」と「明治栄光論」を問う

著者:中塚 明
販売元:高文研
Amazon.co.jpで詳細を確認する

『司馬遼太郎と朝鮮』 備仲臣道 (2007 批評社)

司馬遼太郎と朝鮮―『坂の上の雲』‐もう一つの読み方 Book 司馬遼太郎と朝鮮―『坂の上の雲』‐もう一つの読み方

著者:備仲 臣道
販売元:批評社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

※ まだ書いている途中です。(^^;)

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歴史認識問題」カテゴリの記事

コメント

お久しぶりです。
私も連休中にちょうど『司馬遼太郎の歴史観』を読んでいたところでした。

>「司馬史観」と<佐藤優現象>とは、相似形に見えてくる

確かにそうですね。おっしゃる通りだと思います。
「司馬史観」が、主に「国益」の立場から明治を肯定することで、植民地主義の被害者である朝鮮民族の主体性と、加害者である日本民族の退廃ぶりに、日本人が向き合わずに済む構造を作り上げたように、<佐藤優現象>では、「戦後社会」を日本人同士で肯定し合うことで、左派までもが、在日朝鮮人を含むアジアからの問題提起と、日本の戦後責任を回避しようとしていますからね。

二元論の(薄っぺらな)克服を標榜する「司馬史観」の国民的浸透が、<佐藤優現象>をお膳立てした面も大きいのではないかと思います。

個人的には、司馬も佐藤も、著作がつまらないところまでそっくりだと思いますが。まあ、どちらもあまり読んでいませんが。

m_debugger さん、今晩は、

いや〜、そのあたりでウルトラマンのカラータイマーより持たない集中力が切れてしまい、もっときちんと書くところを大幅に端折ってしまいました。
どちらも検証と批判からごまかす為の言い逃れレトリックですからね。

続きを書きますので、よろしくお願いしますね。(^_^)/

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835563&tid=a4ua46a41a4ka4ja1aaygcw5doa2a1a25dfa4a62qa1a22hb22q&sid=1835563&mid=35548
「かけはし」はお話にならない党派ですね。ここは以前にもRENKの李英和を講師に呼んで学習会をやった事があるどうしようもない連中で、それも佐藤優が台頭する大分前の話でしたから、元より典型的な「日本のダメ左翼」だったと言えるでしょう。元共産党で今は泡沫極右政党・新党日本の有田芳生もそうですが、北朝鮮を攻撃する為には極右とも平然と手を結ぶ、そんなレベルの低すぎるバカが日本の左翼には多すぎます。

ZEDさん、こんばんは、

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元共産党で今は泡沫極右政党・新党日本の有田芳生もそうですが、北朝鮮を攻撃する為には極右とも平然と手を結ぶ、そんなレベルの低すぎるバカが日本の左翼には多すぎます。
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狂信的な右派政治団体である現代コリアの佐藤勝巳も元共産党員ですからね。
この手の「転び左翼」は過激な運動家が多いですよね。彼らは、抗議活動をすることが目的であって、イデオロギーなんて何だっていいのです。それによって自らの自己顕示欲、ナルシシズムが満たされることだけなんですから右翼の低脳と同じなんですよ。(笑)

だから、簡単に共闘できるはずですよね。同じものなんですから。

>黎明期の近代日本という国家に宿っていた「健全さ」

姜尚中氏は夏目漱石についても研究しているようですが、あの漱石にして、下記のようなものを書かしめた近代日本の「健全さ」なるものをどう捉えているのでしょう。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/781_14965.html

蓬莱人さん、遅レス2つめです。

>姜尚中氏は夏目漱石についても研究しているようですが、あの漱石にして、下記のようなものを書かしめた近代日本の「健全さ」なるものをどう捉えているのでしょう。

以前、金光翔氏が言っていたように、どうも姜尚中氏は日本人になったようですね。国籍がというより、立場が。┐(´-`)┌

 簡単に言うと、日本の文化的流れは公家文化と武士文化の2つがあります。公家文化はそれまでのいきさつや儀礼、神話、伝承で日本の歴史を制御しようとするやからでした。一方、武士文化は何度も失敗しつつもやっと江戸期になってそのくびきから脱却することに成功しました。そして公家を介さず天皇を崇敬する方法論を開発しました。しかし明治維新後、公家は復活し国家神道の中枢的指導を成しました。
 このような背景より、戦前の空気をしっていた例えば、小林秀雄や三島由紀夫などは武士思想と公家思想のバランスを絶妙にとっていた。しかし大東亜戦争の崩壊と米国の占領は思想への極端な恐怖を持つ合理主義を求めた国民が、思想と隣り合わせの歴史を見たい欲求に駆られたから、司馬を読む羽目になった。
 司馬は、日本の歴史と言う物体があるとすればそれをテーブルの上に置き、それが見えるものであればまるで科学者のように淡々と歴史を描写するのだといった。じつはこれは一見、公家とも武士とも等距離だったかもしれない。しかし武士のほうが合理主義的文化を形成していたので歴史においてそれを深く掘り下げた。明治維新の本義は、逆の立場をとるよりはそちらのほうが正鵠を得ていたというべきであろうか。

 現在の神社神道は日本書紀を基軸としている。神話の世界の話は、国津神=出雲、天津神=大和=天皇家祖神という2元論で語られ、出雲=根の国=黄泉の国という不吉なイメージを与えようとしている。しかし神道への深い思いがこういう、いじわるな解釈は本流の解釈として認定しがたい。
 しかし今年、先に古事記編纂1300年となり、日本人が神道や神話について深く考えることを内々戦々恐々と見守っているのは神道関係者の一角ではないだろうか。古事記はかつて禁断の書で宮中の奥に眠っていたとされている。それを、江戸期の国学者本居宣長が解釈付きで世に知らしめたため、宮中の五摂家をはじめとする古代から続く貴族たちは当時同様な思いでいたに違いない。
 五摂家は元をただせば、藤原鎌足にたどり着き、その子不比等が日本書紀の編纂時の有力者だったことを考えると、状況証拠だけで何となくその意図するところが分かるのである。天皇が万世一系として男系の血統を絶やさないことを大原則にしたがったのも、天皇の妃を自分の血族の女子を送り込み、外戚政治によって政権の中枢に永遠に居たいがためであった。現に、平安時代になると強力な外戚政治である摂関政治の形態を完成させ、藤原氏は大いに繁栄した。
 つまりは、先に出た古事記と後の日本書紀の差異と言うものは、藤原氏にとっての都合不都合で変えたものと言う見方が当を得ているのではないかと思う。特に日本書紀は、大化の改新で対立し滅ぼした蘇我氏を徹底的に悪者にしている。最近、蘇我氏側の聖徳太子を悪く言う本が散見される。お札に載らなくなって権威が落ちたのかとも考えたが、これも藤原氏側の現在まで至る勢力によって日本書紀的論法が復活しているのかとも取れる。そこでの古事記1300年なのである。逆に言うと明治というこの古代勢力の復活の反作用として聖徳太子や武内宿祢をお札に乗せたのはよいバランス感覚でそれだけの碩学の士がいたということだろう。
 以上のことは歴史学の専門家では到底発言できない。喋ると仕事を干されるからだろう。藤原氏側の人間は歴史に絡んだ分野の学問でネットワークをつくり目立たないように学術の指向する方向性を制御している節がある。歴史学の分野の人間の奇行を聞いたりする。出雲からこれ以上考古学的大発見が起こらないでほしい。と発言する人間がいる。あるいは、旧石器ねつ造事件のようにあのような不正の情熱は学問上の名声欲しさでは説明できない不気味なものを感じる。それで、記紀成立以前を言及している文献学的断片にはあまり依存せず、記紀成立の背景と考古学的な情報を基に以下、展開を行う。
 
 こういう視点で、出雲神話を考えると古事記にくらべ日本書紀は大幅にその記述が減じられているので、記述内容は藤原氏には不都合か不要だった。歴史的に考えると古事記成立時代に比べ日本書紀撰上720年は完全に文字時代にあり語部たちの顔色を窺わなくてもよかった時代だったかもしれない。
 しかし古事記も712年とそんなに変わらないじゃないかとの反論も出るが、著名な古事記研究者、三浦佑之氏によるとその時代より4~50年古いものだという。それは天武朝あたりになろうが、そのころに神話を語る語部がいたと出雲国風土記には報告されていて、藤原氏が蘇我氏を滅ぼした大化の改新も丁度その付近にあるから一つの時代の節目だったのだろう。
 それなら、古事記はどういう勢力を背景に書かれたかと言うと、その当の滅ぼされた蘇我氏系だったものと考える。天皇の祖神アマテラスと比肩させたスサノオは出雲地域で古くから四隅突出墳丘墓という石棺や石室を伴い墳墓表面に石を敷き詰めた様式の大型墳丘墓をつくり古くから作り、その作り方は後のたとえば蘇我馬子の石舞台古墳の方墳を思わせるものがある。さらに注意深く古事記を読むと、天地創造がおこり始めて具体的地点を指した地名が、国産み神産みをおこなった伊邪那美神の埋葬地、出雲と伯耆の堺の比婆山とあり、これも蘇我氏の本貫だった地点付近を指していることが考えられる。つまり天皇の祖神が現れる以前から、神々との関係があったことを匂わせる構図を取っているからである。具体的に言うと古事記では根之堅洲国とされる島根県安来市あたりであろう。
 つまり、古事記も日本書紀と同様、蘇我氏に都合のよい作りになっている疑いが濃厚である。しかし、神話があれだけふんだんにあるのは、まだ語部の力が強い時代に編纂されたものだからだと思う。内容を削るとその分の失業者が現れ、問題が生じたのではないかと考えられる。語り部は、今でいう有名歌手のような地位を占め、神話各部をそれぞれのレパートリーとして、その人選は何かコンクールのようなもので決まったように思う。そうしないと、選りすぐりの人材が集まらないし、その能力の高さゆえ高いブライドをもっていたことが出雲国風土記の内容からも見て取れる。私はこのような状況下の編集方針は、以下の4点であったと考える。(1)内容は削ってはならない(2)内容の単語単位の言い換えは韻を踏んでいれば許される。(3)内容の追加挿入も許される。(4)内容の順番の入れ替えもある程度許されるが大幅には許されない。ということが考えられる。(1)の理由は先述したが、(2)(3)も同様である。(4)はABCDEFの並びをABCEDFは許されるがFBCDEAは許されていないと考えることで古さの権威と言うものを尊重した。いや、古事記神話のメインテーマーは蘇我氏が最も古い天皇を超える名家であることをひそかに語っていることを考えると当然かもしれない。(2)は和歌の技法や現代のダジャレに通ずるところもある。
 神話時代は(天地神創造)→(出雲神話)→(国譲り)→(九州神話)と大まかにとらえられ神武東征に繋がる。ここで藤原氏が蘇我氏を滅ぼしたように蘇我氏も物部氏を滅ぼしている。あの強引な藤原氏でさえ日本書紀で蘇我氏自体の抹殺が出来なかったのは神話時代の出来事ではなかったことが理由と考えることもできるが、蘇我氏だって神話時代の編集方針に語り部の縛りがあることをここでは想定しているため、大豪族物部氏の神話がないのは不自然ではないか?と思われるのである(疑問1神話期物部不在)。これを解消しようとして出ていた書物である「日本先代旧辞本紀」は偽書とされているがそういった反動から重要視されていると考えられる。また、最も古い名家であると蘇我氏が言いたいのならもっと直接的に言うことが出来なかった理由もあり、そこに神話の複雑な展開の意味があるのではないかと言う疑問もわいてくる(疑問2神話展開の非直線性)。

 ここで、出雲の考古学的展開を述べてみる。銅剣銅鐸の大量出土が島根県にいくと喧伝されているが、いずれもお祭り(今のイベント)の集客力を高めそれで権威を競っていた社会だったので、ビッグイベントが流通経路を変化させるといった社会的インパクトはあったことは十分考えられるが、それが今日の天皇に続く王権の発達に必ずしともつながらない。つまり、古代天皇の武断的イメージに直結するのはやはり鉄器の流入に端を発する。大勢の集団を動員しないと農地面積の拡大と蓄財は出来ず、王の墓を巨大にできず、戦争により領土拡大ができないが、いずれも鉄器が青銅器よりも圧倒する。というかもともと青銅器は祭器、楽器、巨大食器などでいずれも現代のイベントものに登場するものに向いていたというのが金属学的性質上妥当であり金銀銅ともそういった性質で世界各地の古代文明で展開されている。青銅器は木器と鉄器の中間的加工性を有し、鉄器は石器と青銅器のバランスを兼ね備えた使用時の耐久性能をもっているという関係がある。よって、前者はソフト的金属素材であり後者はハード的金属素材である。ここでもちいたソフト/ハードの関係は、ハードの革命はたまにしか起きず、それが起こるとソフト的展開が発達するが、それが飽和すると次のハード革命が無いとそんなに発展がないという現在の技術発展状況の比喩をしているのである。つまり青銅器はある種の変化をもたらしたかも知れないが、依然縄文性の文化を色濃く残していたことを意味していたと見たほうがよいのではと思う。
 四大河文明圏などでは青銅器の時代が長く続いたので、金属を貨幣として用いる方法が広まった。その名残は、金がいまだ貨幣の代わりを狙っている状況に見て取れるが、極東アジアの事情は違い、青銅器なるものは断片的かつ短命で、鉄器に移行してようやく王権が確立し始めたとみるのが良いような感想を持つ。
 こういった状況の中、画期的な書物が出ていた。弥生時代の先端技術で鉄器充溢社会を想定させる四隅突出墳丘墓に関する本が「四隅突出型墳丘墓の謎に迫る」出雲市教育委員会編ワン・ライン(1995)にすでに出ていた。しかしそれは最も輝いていた出雲の西半分の話が主題となり、それが古墳時代になるとぶっ潰れて清々したような締めくくりになっている。しかし、それでもそういった弥生後期の全国に先駆け王墓をもった出雲というものが、基本的には東西の二極の方墳文化の中心地があって安来、西谷を中心とした構造をとっていたことを物語っている。これは黄泉比良坂を境界として根之堅洲国と葦原中国で出雲が構成されていたとする古事記の記述と全き合致を呈するのである(たとえば、安本美典著「邪馬台国と出雲神話」勉誠出版(2004))。
 全国に先駆け発展した王墓文化は大陸との結びつきの濃厚さを意味し、鉄器の出土数は北部九州に劣るものの多く出土し、それを効率的に使う集権的社会構造があったことを意味していると考古学者らも想定している。そういった先端的社会構造を持った出雲は弥生時代において既に北陸や東北と言った地方へ日本海沿いに展開した大勢力となったことが四隅突出墳丘墓の分布状態より明らかになっている。確かに北部九州が最も大陸の恩恵を受け、鉄器などの発掘数も最も多い地域であった。しかし彼らは吉備までを東限とし、それより東には鉄器が流通されていないことは考古学が明らかにして来たことである。

 以上のような考古学的状況から歴史作家;関裕二は、当時大和への鉄の供給を止めた九州に代わり、大陸から出雲経由の鉄の流入経路を作り上げたことにより、出雲は発展したと分析している。ここで想像されるのは、当時の吉備を西限とした当時の東日本の社会と言うものを考えると、縄文的文化圏だったと考えられる。大陸からの移民や難民が縄文社会をつくったことは教科書に載るほどの定説であるが、北部九州圏や吉備圏の弥生人たちは縄文的な社会と敵対関係を作っていたことが考えられる。一方、出雲のやり方は同じ弥生人(当時の大陸文化を背景に社会を構成したものを本文ではそう呼ぶ。) でありながら、縄文人により懐柔的方法で、日本海沿岸部の広域に短期間のあいだ勢力形成が出来たのであろう。多分、元帝国が短い期間で大帝国を築いた方法論から考えると、大幅に縄文的風習に寛容だったのではということは、出雲が縄文食である蕎麦の西限に位置づけられることからも想像できる。このころの大和あたりから青銅器がおびただしく出るが、縄文人社会でも青銅器は容易に作れていたとも想像できる。あるいはアニミズム的宗教観から青銅器製造には熱心になったものの鉄器に至ってはそれが及んでいなかったのかもしれない。とにかく、祭祀(イベント)を成功させ縄文系文化圏の一大流通拠点になっていたのは想像に難くない。そこで祀られていたのが大物主であり、未だに「大三輪(大物主)はんは、神武はんより先や」と奈良県民が言うというのも頷ける話である。
 このような縄文人の聖地に対し、弥生人たちは流通の拠点という物理的側面だけでそこを占領し、大和朝廷が出来たのが実際のところだろう。そのため大和朝廷は梅原猛がいうように、大和にいた神々を全部大国主に纏めて出雲で祀らせたのが出雲大社であるという旨を「神々の流竄」でいっていることは正しいと思われる。しかしそれでも縄文拠点であったという事実が、沢山の大寺院を建立してきたにもかかわらす奈良時代じゅう大和朝廷に不都合な影響を与え続けたため、ついに平安遷都を行ったというのがマクロ的に見た歴史的な真相ではなかったか?権力者同士の抗争に原因をもとめるものも多いが、首都移転と言うものはそういう動機では行われにくいと思っている。

 出雲神話とだいぶ外れた論調になっているという印象を持つかもしれないが、梅原猛の言が180度変わっているという声を聴くが、かつてのベストセラー「神々の流竄」も最近の「葬られた王朝―古代出雲の謎を解く」もどちらも当たっているという側面を持っているが、それを統合する意思が彼にないのが寂しいといいたくなる。
 それでは、すべて出雲神話がそういう縄文神の島流しのためにかかれているのかというとそうではない。入り組んだ構造をしている。まずオオクニヌシの神話は島流し理論で描かれている。しかしイザナミやスサノオの話はそうではなく蘇我氏(あるいはそれ以前の大和で大きな力を持った出雲系豪族)の伝承をかなり正確に伝えていると考えられる。つまり、王を中心とする国家の最初の提案者は出雲なのだと。つまり縄文/弥生とか大和/出雲という二元論がおかしいのであって端的に言うと、(縄文人)(出雲系弥生人)(それ以外の弥生人)の三極構造の動きが大和王権(すなわち天皇制)の成立に深くかかわっているといった見方をする必要性を深く感じる。

 島根県安来市に巨大な工場を構える日立金属が開発した新型冷間工具鋼 SLD-MAGIC(S-MAGIC)は微量な有機物の表面吸着により、金属では不可能といわれていた自己潤滑性能を実現した。この有機物の種類は広範囲で生物系から鉱物油に至る広い範囲で駆動するトライボケミカル反応を誘導する合金設計となっている。潤滑機械の設計思想を根本から変える革命的先端材料いうものもある。
 このトライボケミカル反応にもノーベル物理学賞で有名になったグラフェン構造になるようになる機構らしいが応用化の速度にはインパクトがある。

 安来には偉大な日本の原点があったような気がします。こんど旅行に行ってみたいと思います。

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