日記・コラム・つぶやき

2009年2月20日 (金)

村上春樹 エルサレム賞受賞スピーチ 現実逃避の茶番

 「村上春樹がガザ侵攻を批判」とメディアで大々的に報道され、ネット上でもそれを賞賛する声で溢れている。しかし彼らが参照した現地新聞などを読んでも日本のメディアで報道されるような「ガザ侵攻批判」は見つけることができない。言い訳けしながらエルサレム賞を受賞する村上春樹とそのスピーチを「感動した」などと絶賛する人達との「茶番劇」に対して、前回「これがイスラエル批判?」と書いた。今回はその続き。

 ネット上に村上春樹の署名付き全文と日本語訳がアップされていた。
特にエルサレムポストには欠けていた「戦闘」に関連して言及している箇所の日本語訳を引用させてもらう。http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/20090218/1234913290 からの引用

これは僕がフィクションを紡ぐ時、常に心に留めていることです。僕はそれを一枚の紙切れに書いて壁にはっておくというよりもむしろ、僕の「心の壁」に彫りつけられていること……それはこういうことです。
 「高く、固い“壁”と、それにぶつかると割れてしまう“卵”があるとき、僕はいつも卵のそばにいる」
 ええ、どんなに「壁」が正しく、どんなに「卵」が間違っていようとも、僕は「卵」のそばに居続けます。どこかの誰かが「何が正しくて、何が間違っているのか」を決めるとき、それはおそらく時間と歴史が決めるのでしょう。けれどもし、どのような理由があろうとも、壁のそばに立って仕事をする小説家がいたとしたならば、その作品にはどんな価値があるというのでしょうか?

 このメタファー(暗喩)はいったい何を意味しているのでしょうか? それはいくつかの場合において、とてもクリアで単純です。高く固い「壁」とは、爆撃機であり、戦車であり、ロケット砲であり、白リン弾です。そして「卵」とは、それらに壊され、燃やされ、撃たれる非武装市民……、これがその暗喩が意味することのひとつです。

 

 日本の新聞などで「村上春樹、ガザ侵攻を批判」と見出しになったのはこの部分だろう。これを読んでも、イスラエル批判というのは読み過ぎだ。

 村上は「爆撃機や戦車や、ロケット弾によって壊され、燃やされ、撃たれる非武装市民の側に立つ」と、とってつけたような下手な暗喩を用い、その暗喩の解釈を解説して(なら、暗喩なんて使うなよ)自分の立場を言明している。
だが、結局、村上は発言に一般性への含みをもたせることで、善悪の判断から逃げた。
 そもそも村上が言い訳がましい前振りをしたのは、日本の世論からエルサレム賞を受賞することが、非武装市民を撃つ側(村上の言う「壁」側)であるイスラエル側に立つことになるという批判の声が上がったのが発端ではないか。それならば、そこにいてエルサレム賞を受賞している「僕」は「卵」の側にいるのだろうか?
「卵」の比喩を無理に当てはめたのは、曖昧にして読者がかってに都合の良く解釈されることを狙ったのだろう。
 
「壁のそばに立って仕事をする小説家がいたとしたならば、その作品にはどんな価値があるというのでしょうか?」などと言う村上は、図らずもイスラエルーパレスチナ問題という政治的なリアルな問題に直面し、自分自身を小説の主人公として現実逃避させてしまった。現実の自分が「壁のそばに立って」いるのに。

笑顔で自分を讃えて歓迎してくれる者に向かって現実の戦争や侵略への言及など彼には到底できないことなのだろう。

もう一つ、
これはスピーチ原稿らしいのだが、前もって日本のマスコミに配られていたのではないのか?先に出たエルサレムポストとAPによるスピーチ要旨では、肝心な戦争への言及部分にはまったく触れられていなかった。そんなことはあり得る話なのだが、日本のメディアが大きく取りあげたようにハイライトな部分だけに疑問を感じる。それと、『壁』と『卵』を、「爆撃機、戦車、ロケット弾」と「壊され、撃たれる市民」の比喩とするのは、変だ。「爆撃機・・・」と「"それに"撃たれる市民」との関係性が「壁」と「卵」では当てはめることができない。きっと、「壁」と「卵」の前段の解釈部分は後から無理にこじつけたものものではないか?

どうせ薄っぺらい小説家なんだからどうでもいいけど、センスなさ過ぎ。

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2009年2月18日 (水)

村上春樹 エルサレム賞受賞スピーチ これがイスラエル批判?

 小説なんてほとんど読まないし、偽物の匂いがプンプンする村上春樹に興味もないけれど。

イスラエルでの彼のスピーチは、彼がイスラエルの賞を受賞することに勝手な思いこみで反対圧力をかける人達を意識しての単なる言い訳に読める。売文屋らしくイメージを損ないたくないという思惑だけで、本音から出たものじゃないから、表面上それらし読めるけど実際は何も言ってない。どこにガザ攻撃批判、イスラエル批判があるのか。
これはエルサレム賞のテーマである「社会における個人の自由」をベタになぞっただけの発言じゃないか。ただ比喩に「壁」という思わせぶりな言葉を使ったことで、読者に都合のいいように解釈させただけだ。これのどこがイスラエル批判なんだ?批判どころかありがたく受賞して、丁寧に感謝までしているじゃないか。ばかばかしい。

 彼に表現者としての誠実さがあるのなら、「私はただの売文屋ですから、政治
的な事には関わりません」と言って堂々と賞をもらうか、わざわざ回りくどい言
い方をせず、イスラエルのパレスチナへの非道に厳しい抗議をするとともに賞を
蹴るべきだろう。もちろん村上は後者を選択する気はもうとう無いし、誠実さもない。

こんなので、「感動した」なんて言う人がいるのにビックリだ。バカじゃないの
か。村上春樹の読者なんて、やっぱりこの程度のものなんだろう。

ネットで拾ったスピーチの一部

So I have come to Jerusalem. I have a come as a novelist, that is - a spinner of lies.

Novelists aren't the only ones who tell lies - politicians do (sorry, Mr. President) - and diplomats, too. But something distinguishes the novelists from the others. We aren't prosecuted for our lies: we are praised. And the bigger the lie, the more praise we get.

The difference between our lies and their lies is that our lies help bring out the truth. It's hard to grasp the truth in its entirety - so we transfer it to the fictional realm. But first, we have to clarify where the truth lies within ourselves.

Today, I will tell the truth. There are only a few days a year when I do not engage in telling lies. Today is one of them.

When I was asked to accept this award, I was warned from coming here because of the fighting in Gaza. I asked myself: Is visiting Israel the proper thing to do? Will I be supporting one side?

I gave it some thought. And I decided to come. Like most novelists, I like to do exactly the opposite of what I'm told. It's in my nature as a novelist. Novelists can't trust anything they haven't seen with their own eyes or touched with their own hands. So I chose to see. I chose to speak here rather than say nothing.
So here is what I have come to say.

If there is a hard, high wall and an egg that breaks against it, no matter how right the wall or how wrong the egg, I will stand on the side of the egg.

Why? Because each of us is an egg, a unique soul enclosed in a fragile egg. Each of us is confronting a high wall. The high wall is the system which forces us to do the things we would not ordinarily see fit to do as individuals.

I have only one purpose in writing novels, that is to draw out the unique divinity of the individual. To gratify uniqueness. To keep the system from tangling us. So - I write stories of life, love. Make people laugh and cry.

We are all human beings, individuals, fragile eggs. We have no hope against the wall: it's too high, too dark, too cold. To fight the wall, we must join our souls together for warmth, strength. We must not let the system control us - create who we are. It is we who created the system.

I am grateful to you, Israelis, for reading my books. I hope we are sharing something meaningful. You are the biggest reason why I am here.

http://www.jpost.com/servlet/Satellite?cid=1233304788868&pagename=JPost/JPArticle/ShowFull

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2008年10月 1日 (水)

日本ー繁栄時代の終わり

先月、休刊ということで『論座』、『月刊現代』を読んだ。
佐藤優の駄文や知性のかけらもない評論家どもの乳繰りあいに呆れ、こんな馬鹿どもが日本の知性だとは、もはや救いようもないと激しく脱力した。

その後、福田が突然退陣した後、麻生が総理大臣となり中山新国土交通相が本音を語って辞任。

何なんだろう。この国はおかしい。
この国では、思想というものが他所から取り入れるものとしてあるわけなのだが、思想は内面化させることなく、着飾るのか見せびらかすものであるかのようだ。日本には評論家しかいない。
だから、相手ごとに言葉を、考えを変えることをよしとする。中山はただの人間のくずだが、批判されたのは彼の主張そのものではなく、主張を使い分けなかったことだ。

明治以来、欧米の一部、使える非文明人として重宝されてきて、日本もその恩恵を十分に受けてきた。しかし、その時代も終わろうとしているようだ。
もはや導いてくれるものはいない。安倍や麻生のような能なしが日本のリーダーとして力を持つということからして、自らの足で自滅の道へ歩み始めたように見える。

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